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聖書でパウロが 神を信じていない人間も立派な人間だと認めるように
- 1 :以下、?ちゃんねるからVIPがお送りします:2019/12/28(土) 09:46:52.423 ID:Z66zkX1w0.net
- 死後、「あの人は立派だった」と言ってもらえるように立派な行動をしなさいと
書いてあるが
それは無理である
もちろん、中には立派な人もいるだろうが
そもそもクリスチャンはたいてい平凡な人間だからである
もともとの資質がないので、特に立派な人間なんかにはなれない
当たり前だが、滅多にいない、なかなかできない事をするから立派な人間なんであって
自分の意志ひとつでできるならだれも苦労しない
当たり前だが特別優れた資質や能力があるわけでないので、たいていのクリスチャンはたいして立派でもないし、たいして優れてもいない平凡な生き方しかできない
私は聖書の間違えというのは科学的な間違いというよりも
むしろ、こういうところにあるんだとおもう
と同時に宗教というのはきれいごとをいうのが仕事なんだからそれはそれで仕方のない間違えかとも思う……
聖書が純粋に現実的な書物だったら、最初から人に感動を与えず、見向きもされないだろう
人を集めるには現実を超えたけれんみが必要である
- 2 :以下、?ちゃんねるからVIPがお送りします:2019/12/28(土) 09:50:08.628 ID:Z66zkX1w0.net
- また我々は立派な人間になるためにいきているわけではない
人生を何か一つの目的の手段とするストイックな生き方には感心しjない
無論、オリンピック選手や東大受験性のように、本当にそれだけが目的の生き方も
否定はしないが
我我は平凡な人間だし、平凡な人間であっていいのだ
だれもが神のためにいきる聖者みたいな生き方ができるわけじゃないし
人生それだけが目的になったらかえってつまらないじゃないか
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