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蛭子能収の人生相談「親子が仲良くする方法はないでしょうか…」

1 :以下、?ちゃんねるからVIPがお送りします:2020/02/10(月) 01:02:29 ID:JV9dm+100.net
【Q】高校受験のあとから、息子が父親に反抗するように。今では、些細なことで
口論に。親子が仲良くする方法はないでしょうか? また、蛭子さんは父親に
反抗していたのでしょうか?
(フローラさん・49歳・岩手県・主婦)

【A】蛭子能収
「オレの父が死んだのは、高校生のとき……あれ中学校……、いや小学校だったかな……。
よく覚えていませんね。遠洋漁業の漁師だったから、1カ月半は船に乗っていて、
4,5日は家にいるという繰り返し。ほとんどいませんでしたからね。恐かったとか、
やさしかったとかの思い出は、ほとんどありません。

オレの右手の小指に傷があるんですが、これは、小学校のときの夏休みに、父と
釣りに行ったときにできたものです。釣りといっても「はえ縄」という方法で、
長くて太い縄に、何百本も細い糸がぶらさがっていて、そこに針がついているんです。
そのはえ縄を海に流していたら、一本の針が、俺の小指に刺さってしまって。
「いたい!」と叫ぶと同時に、海にスゴイ勢いで、どんどん引き込まれて
いきそうになったんです。

そのとき、父親が、バーンと包丁で細い糸を切ったんですよね。
あれだけ緊迫した状況だったら、普通は、太い縄を切ると思うんです。
でも、父はそれを切ったら、海に流した「はえ縄」がなくなってしまうと
一瞬で判断して、細い糸を切ったんですよね。それだったら、糸1本損するだけです
から。いや〜、頭いいなと今でも思います。

2 :以下、?ちゃんねるからVIPがお送りします:2020/02/10(月) 01:02:45 ID:JV9dm+100.net
母親に対しての反抗といえば、23歳で上京したことですかね。
高校を卒業して看板屋に勤めていましたが「このままでは自由がない」と東京に
行くことを決めたんです。当時は、母親とふたり暮らしでしたから、オレが
いなくなったら母親が困ることはわかっていたんですけどね。
でも、このまま長崎にいるとダメになると、出発する前の日に母親に言ったんです。
最初は、すごく戸惑っていたけど、最後には、快く送りだしてくれました。

それから、俺がテレビに出るようになって、所沢に家を建てた頃、母がやってことが
あるんです。これまで一度も東京にきたことがない母が、1カ月くらいずっと家に
いたんですよね。しかも、なかなか帰るといわないんですよね。
オレの前の嫁さんも、「お母さん、いつ帰るのかな?」と、すごく困っていて、
オレに訴えるんですよね。オレは、居たいだけいればいいと思ったんですが……、
やっぱり、女房が神経をつかって大変そうだったんですよね。だから、母に笑いながら
言ったんです。

「母ちゃん、いつ帰るね?」
「もう、そろそろ帰ろうかね」

あの時の母の顔を、オレは、ずっと覚えているでしょうね。その後、寝台特急で長崎に
帰っていきましたが、死んだのは、それからすぐでした。

あっ、親子の相談でしたよね。そもそも親子が仲良くしようと思うからいけないんですよ。
子どもには、なにも期待しなければいいんです。しかも、親の存在なんて、オレの小指の先の
傷みたいなもの。小さくても、なにか伝えられたらいいだけなんですよ。」
(2015年「蛭子能収のゆるゆる人生相談」より抜粋)

3 :以下、?ちゃんねるからVIPがお送りします:2020/02/10(月) 01:02:49 ID:Fqk4hbZs0.net
スマホ99個を1カ所に集めてGoogle Mapsに幻の渋滞を起こし,現実世界の人間の動きを誘導する実験が面白い

http://byoiko.null-t.org/x38d2ba/pan264yks14zt5.html

4 :以下、?ちゃんねるからVIPがお送りします:2020/02/10(月) 01:06:53 ID:HiKyu7HX0.net
芥川賞取れるやん、これで

総レス数 4
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