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吉本興業と山口組
- 1 :平木奈央太【嫌儲から良質なスレッドを直輸入で皆様にお届け致します!】 :2020/06/27(土) 16:01:49.031 ID:qqbvd55M0.net
- https://news.nifty.com/article/entame/showbizd/12280-708925/
「吉本興業は明治、大正、昭和初期まで、ヤクザとの関わりがありました。ところが1981年、山口組の田岡一雄三代目組長が亡くなる直前、吉本の舵を
とっていた林正之助会長が所属芸人を集めて『今日から、ヤクザとは一切関わってはならん!』と宣言しました」
もっとも、「ヤクザとは関わるな」と言った当の林会長は、その後同じ年に行われた田岡組長の葬儀に出席しているのだ。
「葬儀では、林会長は位牌を持ちながら歩いていました。親族と同じくらい、田岡組長と関係が深かったですね」
林会長が田岡組長の葬儀に参列した様子をメディアが報じた。それを見た中田カウスが、会長と交わした会話を竹中氏は今でも鮮明に覚えている。
本書から引用すると、
《会長には、新聞を見せて、これは会長やないんですか、と聞いてみたんです。すると会長は表情も変えずにおっしゃりました。“カウスくん、キミはボクに双子の兄弟が
おるのを知らんかったんか? これはボクやなくて弟のほうや。しゃあない奴やな。きつく言っとくわ”と》
吉本興業は、1912年に吉本泰三と妻のせい(旧制・林)が興した。山口組と関係を持ったのは、1934年。浪曲師・広沢虎造の興行権を得るために、せいが
山口組の山口登二代目組長と面会した。ところが吉本と映画出演の専属契約を結んだ虎造は、山口県下関の籠寅組と縁を持ち新興キネマの作品に出演する
約束を結んでしまう。困ったせいは、山口組に仲介を依頼した。すると、1940年、山口登組長は籠寅組に襲撃され、瀕死の重傷を負い、2年後に亡くなってしまったという。
「林正之助氏の話によると、山口登組長が襲われた現場に当時総支配人だった正之助氏も行く予定だったというのです。用事があって30分遅れたため、助かったと
うれしそうに言っていました。その後正之助氏は山口組と関係が深くなり、兵庫県警の内部資料である『広域暴力団山口組壊滅史』には、正之助氏が
山口組準構成員と書かれてありました。所属芸人にヤクザとは一切関わるなと言ったのは、ヤクザと付き合うのは自分で最後だと言いたかったのでしょうね」
林正之助氏は、1948年に吉本興業の社長に就任した。山口登組長の死は、吉本興業にも責任の一端があったことから、正之助氏は山口組の田岡一雄
三代目と深い関係を持った。田岡組長の妻名義で4080株の自社株を持たせていたほど、身内同然の付き合いだったという。
- 2 :以下、?ちゃんねるからVIPがお送りします:2020/06/27(土) 16:02:45.634 ID:5eNE2dnp0.net
- つまり?
- 3 :以下、?ちゃんねるからVIPがお送りします:2020/06/27(土) 16:04:37.660 ID:/TL7CixMa.net
- 神戸山口になんの?
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