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(*´ω`*)(●´ω`●)

1 :以下、?ちゃんねるからVIPがお送りします:2021/12/25(土) 03:24:19.458 ID:pRRsqoiF0XMAS.net
(*´ω`*)(●´ω`●)(やべっ…話すことない)

2 :以下、?ちゃんねるからVIPがお送りします:2021/12/25(土) 03:24:45.537 ID:7x774fCx0XMAS.net
スコセッシに欠けているのは、まさしくショットの生々しさにほかならず、彼の画面は決まってそれに続く画面への触媒のようなものでしかない。にもかかわらず、1970年代のアメリカ映画というと、コッポラ、スピルバーグ、スコセッシに代表されてしまいます。
 わたくしは、すでに述べたように、その三人の中では、コッポラに強い親しみを覚えています。スコセッシと異なり、彼は自分自身より映画の方を遥かに信頼しており、それ故に、映画によって救われることがあるからです。映画を信頼するとは、同時に、映画には何ができないかに自覚的だということにほかなりません。スコセッシは、間違いなく映画より自分の方を信頼している。だから、映画で何でもできると確信している彼の撮った作品には、映画によって救われることがまずありません。したがって、ごく普通の場面が撮れない。あらゆるショット――構図、被写体との距離、アングル、その動き――が彼自身のやや粗雑な感性によって構成されているので、自分でも意識することなく撮れてしまったというみごとなショットが、彼の映画ではまったく不在なのです。

しかし、合衆国には、スコセッシ以上に過大評価されている監督たちが少なからず存在しております。たとえば、『ツリー・オブ・ライフ』(The Tree of Life, 2011)のテレンス・マリックTerrence Malickなどがそれにあたります。画面設計と編集のリズムという点で、彼がマーティン・スコセッシよりも才能がある監督であるのは間違いありません。彼は、ごく普通のショットがごく普通に撮れる監督だからです。しかし、不幸なことに、彼は普通のショットとは異なる画面を撮りたがる。たとえば、『シン・レッド・ライン』(The Thin Red Line, 1998)の戦闘場面はみごとなものだといえますが、兵士の妻たちの挿話がその中に挿入され、いくぶんか非=現実的なその光景がすべてを台無しにしてしまうのです。『ツリー・オブ・ライフ』にも同じことがいえます。一応は現実的な光景と呼ばれるものの中に、ときおり想像的な光景が挿入され、それが作品から画面の緊張感を奪ってしまうのです。わたくしがテレンス・マリックを信用できないのは、むしろそうした想像的な画面の挿入にこそ自分の作品の真価があるかのように錯覚している点によります。

3 :以下、?ちゃんねるからVIPがお送りします:2021/12/25(土) 03:26:50.026 ID:7x774fCx0XMAS.net
日本の若手の映画作家たちの作品を見せてもらったときにわたくしが最初に指摘するのは、7分長すぎた、9分は削れたはずだということなのです。短すぎる失敗作というものは存在せず、失敗作のほとんどは、きまって長すぎる作品だからなのです。
 実際、クエンティン・タランティーノQuentin Tarantinoの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(Once Upon a Time in Hollywood, 2019)の上映時間161分は、彼自身が編集権を持っていながら、いくら何でも長すぎます。140分もあれば充分だったでしょう。かりにわたくしがその製作者だったら、『デス・プルーフ in グラインドハウス』(Death Proof, 2007)の上映時間113分も、語られている内容としては上映時間100分を切れたはずですから、あと15分ほどは短くできたはずだといっていたでしょう。そうすれば、観客に、もっと見ていたいという気持ちを起こさせることができたはずなのですが、最近の作品のほとんどは、そうした期待を起こさせてはくれません。むしろ、いったいいつ終わるのだろうかというきわめて不健康な問いばかりが見ている自分をいらつかせるのです。

4 :以下、?ちゃんねるからVIPがお送りします:2021/12/25(土) 03:28:04.521 ID:7x774fCx0XMAS.net
わたくしが映画を見始めた1950年代では、ほとんどの作品が90分で完結していました。さきほど挙げたシーゲルの『殺し屋ネルソン』はまさしく標準的で上映時間は85分。これ以上長くても短くても、作品が異なるものになってしまうというぎりぎりの上映時間でした。他方、フライシャーの『その女を殺せ』は、まさにB級作品にふさわしく71分で呆気なく終わる。この呆気なさがたまらないのです。アルドリッチの『キッスで殺せ』は比較的長いものですが、それでも106分でぴたりと終わっています。
この簡潔さを、タランティーノの『デス・プルーフ in グラインドハウス』の弛緩ぶりと較べてみて下さい。これはタランティーノの作品としては比較的短いものでありながら、やはりかったるく思えてなりませんでした。実際、現代においても、まともな映画作家のほとんどは、90分〜100分で充分に語りきれる物語を撮っているはずなのです。ゴダールを見てごらんなさい。彼はほとんどの作品を90分で撮りきってみせています。
しかし、最近のハリウッドの映画は、ほとんど150分ほどのものばかりです。そんなとき、デヴィッド・ロウリーDavid Loweryは、その『さらば愛しきアウトロー』( The Oldman & the Gun, 2018)を93分でぴたりと語り終えてみせる。さすが、と思います。
 いうまでもなく、その上映時間の途方もない長さが正当化される作品もないではありません。たとえば、ジャン・ユスターシュJean Eustacheの『ママと娼婦』(La Maman et la Putain, 1973)の上映時間220分を長すぎるとはまったく感じませんし、テオ・アンゲロプロスTheo Angelopoulosの『旅芸人の記録』(O Thiassos, 1975)の上映時間230分も長すぎると感じることもありません。また、コッポラの『地獄の黙示録』(Apocalypse Now, 1979) の特別完全版(2000)の上映時間203分も、決して長いとは感じません。ところが、さっきもいったように、タランティーノの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の上映時間161分は無駄に長く感じられてしまう。時間的に弛緩しているという印象を免れがたいからです。そのことをだれも指摘しないので、彼は増長してそれでよいと思っているのでしょうが、それは大きな問題だと思います。ですから、新人監督たちにとどまらず、タランティーノに対しても、たとえばアイダ・ルピノIda Lupinoの上映時間71分の『ヒッチ・ハイカー』(The Hitch-Hiker, 1953)を見てから映画を撮れといいたくなってしまいます。少なくとも、大学の映画学科などでは、上映時間に対するより真摯な意識を教えねばなりません。

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